木幡の里・藤原頼通氏の遺跡を巡るガイドウォーク【京阪宇治線観光コース/宇治市観光コース】
木幡の里・藤原頼通氏の遺跡を巡るガイドウォーク
【京阪宇治線観光散策コース】
木幡の里・藤原頼通氏の遺跡を巡るガイドウォーク
京阪宇治線六地蔵駅又は、JR奈良線JR六地蔵駅、地下鉄六地蔵駅から→正行寺→正覚院「長楽寺」→浄妙寺跡→火薬庫引き込み線跡→許波多神社→能化院→宇治陵→西方寺→宇治(五ヶ庄)二子塚古墳→京阪宇治線京阪木幡駅
宇治市北部の伝承や古墳を歩く、距離が少し長め。
※所要時間 3時間
ジャンル 歴史・神社・仏閣/敗戦跡
京阪宇治線京阪六地蔵駅
山科川を挟んで西側の京阪の駅は京都市伏見区にあり、東側にあるJRおよび地下鉄の駅は宇治市にあり宇治市・京都市と2市に分かれた駅となっている。
正行寺
浄土真宗正平三年楠木正行は高師直と河内で戦い重傷を負って弟・正時と刺し違えて自殺、家臣が吉野へ逃れる途中、兄弟の首を此処に埋めた。後、家臣は木幡の地頭の好意により一宇を建立、、正成の三男正儀も楠木一族の棟梁として奮戦したが、後、父、兄弟の菩提を弔ったと伝える。五輪石塔は本堂の下から出てきたのを据えた。
正覚院「長楽寺」
浄土宗、平安後期、木幡山麓に浄明寺という寺が在ったが、応仁の乱で消滅、後、木幡の豪族が拓與を中興開祖として再興したのが当寺。本尊は聖観音菩薩像、境内のすぐ東の小屋には明治十年まで長坂峠に祀られていた地蔵尊を此処に移し長坂地蔵としている。
浄妙寺跡
平安初期、木幡一帯は藤原基経に因り藤原氏の埋葬地で浄明寺は藤原氏の教養の為、道長が寛弘二年建立した広大な寺院であった。そして道長、頼通も木幡に埋葬されたが、その所在が判明せず、一部は宇治陵とされ、浄明寺は現木幡小学校付近とされ、埋蔵物が出ている。
火薬庫引き込み線跡
明治政府は日清、日露戦以来太平洋戦争まで東宇治一帯は火薬製造保管の基地とな、、事故も起き、昭和十二年の爆発事故で142戸の家が破壊、132戸の半壊があり、多くの人々が死亡。現在はその火薬蔵も無くなり、当時使用されていた引き込み線が残っている。
許波多神社
祭神は、皇統の祖とされる「アメノオシホミノミコト」第三十五代皇極天皇が藤原鎌足にに宇治五ヶ庄柳山に神殿を建立させ、応保元年現在地に分祀、五ヶ庄古川にあるのと兄弟社、大海人皇子が壬申の乱で柳を押して戦勝を祈ったのが目を葺いた、境内に藤原基経の墓とされる宇治陵三十六号がある。
能化院
曹洞宗、延歴二十一年延鎮が開基、藤原道長が恵心僧都に依頼した高2,1mの地蔵菩薩像がある、平治の乱や以後幾度か戦乱に遭ったが地蔵菩薩像は焼けず「焼けず地蔵」と呼ばれた。境内には常盤御前の腰掛石がある。
宇治陵
九世紀後半、宇治地蔵山付近に藤原基経が一門の墓所として整備、浄明寺を建立したが、後衰微、墓地も寺も確実に判明せなかったが、近縁に入り三百二十基の古墳が判明、明治に入り宮内庁が十七陵三基を定め、塚に三十七号の番号を付けた、中には五・六世紀の後円墳が含まれている。
西方寺
浄土宗、創建不明、寛永年間の再建、本尊は阿弥陀三尊、「阿弥陀治郎伝説」の水中から拾った金銀製善光寺形阿弥陀如来立像がある、当寺再建の寛永年間に天台から浄土宗に変更する為、PR用に作られた伝説、同様の伝説は東一口の安養寺にもある。
宇治(五ヶ庄)二子塚古墳
長さ110m・前方後円墳・横穴式古墳・大正期に北側後円墳が破壊され、南側前方部が残った、古墳は西から南へ堀が延びて居り通称「ダンの池」として残り、石室は破壊されたが、一部巨大石材として西芳寺の庭にある。周濠、外堤、外壕を有し、倭の五王期前半の貴重な墳墓、南山城随一。
京阪宇治線京阪木幡駅
木幡駅(こわたえき)は、京都府宇治市木幡西中にある、京阪電気鉄道宇治線の駅。
京阪の駅名は「こわた」だが、近隣にあるJR西日本奈良線の木幡駅は「こはた」と、それぞれ読み方が異なる。また、駅周辺の一部地名には「こばた」と読むものもある。